十一、蟻地獄(9)

 その晩もいい月がでた。またしても梁屯長が不安顔で隊長に訊ねに来た。
「水がもう底をつきますよね。」
「そうだね。」
悠然と笑っている。
「余裕の表情に見えますが、何かあてでもあるんですか?」
「へっへっへ。明日は俺の妖術で雨を降らせる予定だ。」
「はああ?」
「ま、明日になってからのお楽しみ。そうだ、今のうちに雨の備えをしとこっと。」
こう言うとウキウキと屯長を召集し、雨対策についてこまごまと指示を出した。雲一つない空に月が皓皓と輝いていますけど、大丈夫なんでしょうか。降るとしても雨じゃなくって雪だろうし。頭おかしいんじゃねえか。
 天幕の回りに溝を掘り、浸水防止措置をして就寝する。幕がバタバタとうるさい。風が出て来たようだ。

 夜明け前、まだ暗い時間帯に、ベチャベチャと何かの降る音で目が覚めた。みぞれだ。マジかよ。野郎、やっぱり妖術使いだったのか。雨水を貯めるために出しておいたかめにドボドボとみぞれが降り注いでいる。すっかり目が覚めてしまった。他の連中もだいたい目を覚ましている。りょう屯長にくっついて隊長を見に行くと、ヤツは呑気にすやすやと熟睡中だった。
「なんか妖術の儀式でもとりおこなってるんじゃないかと思ってましたけど……。」
俺が言うと、梁屯長も真顔で
「うん。」
と答えながら隊長の寝顔をしげしげと眺めている。横で人がおしゃべりしてるのによく目を覚まさねえな。神経おかしいんじゃねえか。
 俺がなんとなく不気味になりながら隊長からちょびっと離れたところにうずくまってちらちら様子を窺いながら夜明けを待っていると、辺りが薄明るくなり始めた頃に、隊長は突如、僵屍キョンシーのようにむくりと起き上がった。
「おや、おはよう。」
笑顔で言いつつ、目にも留まらぬ早業で皺一つなく寝具を畳む。なんと鮮やかな手つきだ。コイツいっつもこんなふうにして布団を畳んでいやがったのか。こんなものは起きた状態のままとか、いいかげんにテキトーに畳むとかしておいて勤務兵に畳み直させるのがおおらかな将校らしい振る舞いだと思うが、隊長の動作は完全にただのキビキビとした古参兵のそれだ。もっと偉い人っぽく振舞えよ。まったく呆れる。俺はおはようございますの挨拶も忘れ、ぶっきらぼうに訊ねた。
「隊長、みぞれが降りましたよ。やっぱり妖術使いだったんですね。」
「ギャハハハ、まっさかあ。ありゃあただの冗談だ。これは完全に単なる気象現象。」
「じゃあなんであんな自信満々に予言してたんですか?」
「きのう夜にお空を眺めていたらね、お星さんがちらちらまたたいてたもんで、そんな晩の次の日は大抵なんか降るってわけ。」
「おじいちゃんみたいなこと言いますね。」
「軍隊では三十過ぎたらおじいちゃんなんじゃない?」
カラカラと笑う。夜が明けると、みぞれは雨に変わった。
 敵は雨の備えをしていなかったようで、濡れネズミになっていた。ざまあみろ。隊長は貯まった糞便が溢れたら大事おおごとだと言って、現在地から東へ五十歩坂を下った地点に糞便を捨てさせた。その先には敵が布陣しているんだ。雨水といっしょに汚水が下って奴らを浸すことだろう。



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