十六、定軍山の十一日間(12)

 張郃軍と戦っていると、背後からも喊声かんせいが聞こえてきた。なんと、夏侯淵が自ら出撃している。さあ黄屯長、お待ちかねの夏侯淵のお出ましです、この機に討ち取りましょう。と思ったが、それどころではない。我が軍は大混乱だ。夏侯栄は来てないのか。とすると、奴は留守番か。
 張郃の部下たちが凱歌を歌いながら我が軍の旗を手当たり次第に引っこ抜いて暴れている。勝負はまだついていないのだが、俺達はすでにほとんど負けた気になっている。誰か立て直す奴いねえのか。夏侯淵が荒々しく
「降伏しろ!」
と叫んでいる。宋屯長、ふだんおっとりした人なのに、どうしたんだ……。敵は全員催眠術にかかっているに違いない。なにせあっちには妖術使いがいるのだから。
 敵は夕方まで俺達の陣地を蹂躙して引き返して行った。帰りしなに、夏侯淵が黄屯長に一通の書面をつきつけて行った。内容は、交戦は明日の日没まで、明後日に片付けと祭祀を行い、明々後日に南鄭なんていに帰還するという隊長からの通達だった。

 十日目だ。我が軍は本物の黄忠将軍の偉業に敬意を払い、最終日の今日はやはり黄忠将軍にならって高所から敵を突く作戦にこだわった。なにがなんでも成功させるぞ、と、朝から気勢を上げる。
 突撃開始前、山谷に魏軍の歌う「屠柳城とりゅうじょう」の大合唱が轟き渡る。我が軍は声を揃えて
「殺せ! 殺せ!」
と叫びながら攻め下る。緊張感が漲る。我々が陣地の目前に至るまで敵は矢の一本も放って来ず、ただ爛々とした目でこちらを見ながら「屠柳城」を歌う。わずか五歩の距離で、おもむろに矢の斉射が始まる。俺達は矢をものともせず、盾をかざしながら敵陣の柵をぶっ壊しにかかる。夏侯栄は物見台の上に立ち、お得意の飛び道具で俺達を情け容赦なく狙撃してくる。
「オラ幼威ようい季明きめい、命中したぞ。離脱しろ。」
「殺せ! 韓英を殺せ! 殺せ! 殺せ!」
なぜだか隊長のことだけは実名で呼ばわりながら、満腔の敵意とともに柵を破壊し物見台の柱を叩き折る。夏侯栄は身軽に物見台から飛び下りると、めずらしく棒をぶんぶんと振り回しながら
燕人張飛えんひとちょうひ、ここにあり! じゃなかった、夏侯幼権かこうようけん、見参!」
と、ふざけた名乗りをあげる。
「夏侯栄って、そんなあざななんですか!」
「おう。五男坊だ。享年わずか十三歳だとよ! 可哀相に!」
怒鳴るように会話をしながら激闘を繰り広げる。棒を盾で受けようとすると、盾ごと吹っ飛ばされる。
「命の惜しくねえ奴はかかってきやがれ!」
「死ね、張飛! じゃねえ、韓英!」
もはやメチャクチャだ。
「敵襲! 後方から敵襲!」
「劉備を捕らえたぞー!」
「構うな! 前進! 夏侯淵を殺せ!」
「ギャハハハ、俺様を素通りか!」
「陳屯長! 黄屯長が討たれました!」
「追え! 夏侯淵を追え!」
「殺せ! 殺せ!」
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