十八、桃姚路(とうようろ)(1)

 三月になった。ここのところ隊長は元気がない。ウキウキと趣味のお料理に打ち込むということも絶えてないし、何を話しかけても常識的な返事しか返ってこない。叔遜がなにげに楽しみにしているというイヤミな返しがないのだ。どうしたのだろうか。先月慣れない事務仕事を頑張りすぎた反動でおかしくなってしまったのだろうか。もとがおかしい人間だから、おかしくなれば真人間になるわけだ。
 夕食後のひととき、楽しげにお茶を淹れるということもなく、ぼんやりと何かの本を見るともなく見ていると、張屯長がぶらりと遊びに来た。
「何を読んでいるんですか?」
六鞱りくとう。」
「…………。」
話題の広げようのない読書だ。六鞱りくとうは兵法書だ。隊長は軍人だ。まともすぎる。
「……料理の本とかじゃないんですね。」
「料理の本?」
何を言ってるんだか分からないとでもいうように、虚ろな表情で張屯長を見る。
「どうしたんですか? 具合でも悪いんですか?」
「うん。暖かくなって花が咲きちょうちょが飛んでみんながウキウキと楽しげに活動する季節になると、俺は体調が悪い。」
「は? どんだけひねくれてるんですか。」
「医学的にはよく知られてる症状なんじゃねえかな。春愁っていう言葉があるぜ。暑くもなく寒くもなく人間にとってちょうどよい気候が俺にはこたえる。極寒とか猛暑とか、うっかりすると死ぬくらいの環境が好物だ。」
「どんな生き物なんだか知りませんけど、戦争へ行くにはうってつけの体質ですね。遠征は大概冬です。」
「冬はいいな。大好き。特に涼州りょうしゅうの凍てつくからっ風は最高。生肉放っといても腐らないし、焼き菓子放っといても湿気ないし。ジメジメと生暖かいよりずっといいよ。」
「このしっとりと柔らかい気持ちのよい空気が、ジメジメと生暖かいですか。」
「俺の祖先はきっと、どっか砂漠みたいなとこからやってきた遊牧民に違いねえ。」
なるほど、そうだと言われれば納得する。髪と目が黒くて漢語を話していればなんとなく漢人っぽく見えるが、中身は絶対どこか化外けがいの地の狩猟民族だ。
「それはさておき、花が咲きましたよ。桃の花。」
「そういう季節だな。」
「お花見遠足しないんですか?」
「ああなるほど。そういうことも企画しないといけないな。…………。」
考えようとするが頭が働かないらしい。ぽかぽか陽気で頭がボケちゃうっていうことは誰にでもあるが、ここまでボケて大丈夫なのだろうか。春は調子が悪いらしいが、こんな時にもし遠征でも始まったら我々はどうなるのだろう。この季節はいつもこうなんだよ、って気軽に流されても困っちゃうんだけど。
「じゃあ、張屯長、企画してくれる? 企画が妥当だと判断したら将軍の許可とって必要なもの準備するから。」
「ハイッ、かしこまりました~。」
嬉しそうにくるりと回って出て行く張屯長。この人はもともとお祭り好きの愉快な人だが、上官が替わってからますます弾けてきた気がする。
 ふうん。企画を部下に一任。上の許可や物品の準備はやってくれるってかい。いい上司じゃん。隊長が元気で自分であれこれ思いついてみんなを振り回すよりも、体調悪くてボケーっとしてる時のほうが、いい上官でいてくれるわけだ。



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