二十、お山の鳥の声(10)

 外には戟盾隊げきじゅんたいしゅう隊長が退屈そうにぶらぶらと歩いていた。いや、待ち構えるようにと言ったほうが正しいのかもしれない。韓隊長の姿を認めると、にやにやしながら近付いてきた。話しかけられる前に韓隊長のほうから爽やかっぽく笑顔で挨拶をする。
「おはようございます。」
周隊長は自分のほうが目上であるという態度で会釈を返してきた。
「とうとう最後まで司馬懿は挑戦に乗ってこなかったなあ。残念だったね。」
韓隊長は照れくさそうに笑う。
「はあ。まあ個人的には命拾いしたようで嬉しいんですけど。」
「どうして。君がやる気満々で志願したって噂だよ?」
「違いますよ。冗談でそんな話をしていたら、将軍が本当にやるか? っておっしゃるもんで、売り言葉に買い言葉です。」
「将軍だってまさか本気でやらせようとは思っちゃいないよ。度胸試しでちょっと当たらせてみて、だめだと思ったらすぐ引き揚げさせるつもりでいたんじゃない? いくら精鋭とは言ってもたった三百人ではねえ。」
「隊員のよい子の諸君のことは信頼していますけど、なにせ隊長が隊長なだけに、彼らにも迷惑かけます。」
「そう思ってるならなぜ辞めないの。」
「人に迷惑かけるの好きなんですよ。性格悪いもんで。」
「あきれたなあ。」
冗談言い合って笑っているように見えるが、この二人はたぶん仲が悪いんだろう。

 十日が経ち、二十日が経った。退却を始めてからもう九十里下がったが、形勢に何ら変化はない。今日は雨降りだ。陣地から見える一面黄金色の見事に実った麦の畑が誰に刈り取られることもなくみすみす雨に濡れて行く様を眺め、俺は涙が止まらない。軍隊がこんなところにたむろしていたら、周辺の住民はおっかなくて刈り取りに来られないんだ。漢中でも雨だろうか。人手が足りなくて刈り取りが間に合わないのではあるまいか。
「ぽんぽんでも痛いのか?」
隊長が心配そうに聞いてくる。
「……麦は雨に濡れたらだめなんです。」
蓮畑の中で育った隊長には分からない感覚だろう。
「なんでよりによって初夏に戦争始めるんですかね。なぜ今なんですか。」
「郝昭が病気だったから。この機を逃したら陳倉落ちねえじゃん?」
「そんなこと麦より大切なんですか? 収穫前に雨にたたられたら半年間畑に置いたことがほとんど無駄になるんですよ。時期になったら不眠不休で刈り取らなくちゃだめなんです。隊長、農家の出身じゃないでしょう。農民のこういう努力が天下を支えてるんですよ。」
目の前で濡れそぼっている麦の穂を俺達がどういう気持ちで眺めているか、士大夫階級の人間には想像もつかないに違いない。隊長はしばらく黙って俺の顔を見つめ、静かに言った。
「季寧さあ、軍隊に入る前、世の中のどこに男ってもんがいるのかなって思ったことねえ?」



《広告》
ページ公開日: 最終更新日: