二十、お山の鳥の声(9)

 半月もの間、連日戦いを挑んだが、司馬懿は一向に応じない。命拾いをした。ありがたい。しかし妙にイライラが溜まっていくのはどうしたことだろうか。隊長に絡む。
「隊長、将軍からも丞相からも小馬鹿にされてるんじゃないですか?」
「大馬鹿じゃなくて?」
可笑しそうに笑っている。俺のイラついた顔がそんなに可笑しいかよ。
「将軍も丞相も、司馬懿が挑戦を買う形勢にないことを知ってて我々を重要そうな場所に配置してお茶を濁そうとしてるんじゃないですか?」
「お茶を濁すって?」
「つまりですね、韓英が司馬懿を倒したいって言ってきたけど絶対無理そうだし、かといって勇ましいこと言ってきたのを無下に退けるわけにもいかないから、司馬懿が戦いを買ってでそうもない場面でこれみよがしに韓英を使ってやるっぽい姿勢を示しておいて、あ~あ、我々は君に任せてみたい気は満々だったんだけど相手が戦いに応じないならしかたないね、ってことで話を終わらせるという。」
「まどろっこしい話だな。将軍が一言『てめえには無理だ俺が殺る』って言ってくれりゃあ済むことだ。もしくは丞相が『今は司馬懿を殺す時機ではない』とかなんとかクドクド説教してくるとかな。」
隊長は突然ゲラゲラと笑い始めた。
「季寧、それでここんとこご機嫌斜めだったわけか? ギャハハハ、ウケる。可愛い奴め。」
「いや、べつに馬鹿が馬鹿にされるのは当たり前だからいいんですけどね、本人が気付いてないなら哀れだと思って教えてあげたんですよ。」
「おう、そりゃどうもご親切に。ギャハハハハ。」
笑いすぎだ。

 そんな話をした翌日、陣払いの司令が出た。漢中に向けて、十日に一度、三十里ずつ退却するという。また今回もさしたる戦果もなしに撤退するのか。しかも、どうして十日おきにたった三十里ずつなんだ。俺は焦燥のあまり発狂しそうだ。天幕の中で何かの目録を確認している隊長に八つ当たりする。
「なんで十日に一度でたった三十里ずつなんですか? 今から大急ぎで漢中に帰れば麦の収穫に間に合うじゃないですか!」
「丞相が麦の収穫より大事だと考える何かがあるんだろう。」
「撤収するならまっしぐらに帰ればいいじゃないですか! 毎日百三十里ずつ!」
「そうだね。」
隊長はニヤニヤと笑っている。
「まさか、撤収すると見せかけてまだ撤収しないっていう作戦なんですか?」
「さあ。賭けてみる?」
「なに賭けます?」
「そうだなあ。季寧が勝ったら、俺のお気に入りの、この小っちゃいすずりやるよ。」
「え~、いらねえ。」
「小さいけどいい石だぜ。」
「自分、字書きませんもん。」
「お前は何を賭ける?」
「そうですねえ。隊長が勝ったら、一日だけ隊長のことを馬鹿にせず尊敬の念をもって従順に過ごしますよ。」
「どっちに賭ける?」
「撤収しないほうに。」
「なんだ。それじゃ賭けになんねえじゃん。」
「え~、隊長、撤収するほうに賭けて下さいよ。」
「そんなにこのすずりが欲しいかよ。」
「いらねえ。」
「ふざけんな。お前が撤収するってほうに賭けろよ。」
「いやだよ。絶対ヤダ。一日隊長のことを馬鹿にせず尊敬の念をもって従順に過ごすなんて絶対ムリ。」
「じゃそんなこと賭けんなよな~。」
隊長は不機嫌そうな顔を作りながらさして不機嫌そうもなく、目録を閉じでぶらぶらと天幕を出た。



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