二十七、徙民考(しみんこう)(8)

 漢中を狭いと思ったことはなかった。遠征で初めて秦嶺しんれいを越えて関中を望んだ時、天地のどこまでも茫々ぼうぼうと広がる様に圧倒された。よそから来た人にとっては、この漢中はさぞかし窮屈な盆地であるに違いない。ぐるりと周りを見回す。どちらを向いても山、山、山だ。北に秦嶺しんれい、南に巴山はざん。東へと流れる漢水かんすいも山の合間に消えて行く。そういえば、漢水をずっと下っていくと、隊長が育った襄陽に着くんだっけ。俺が赤ん坊の時にションベンで湿ったむつきをお袋が漢水で洗い、その下流では思春期の隊長がふてくされた顔をしながら魚を獲って食っていたわけだ。べつに俺のションベンが混ざっているからふてくされているというわけではなく、十二、三歳のガキなんて大抵はいつもふてくされた顔をしながら生きているものだ。
 西に目をやれば、遥かに定軍山ていぐんざんが見える。今年の年明け最初の演習が定軍山だったな。隊長がノリノリで演じていた夏侯栄かこうえいという人物も、十三歳だったんだ。夏侯淵かこうえんが先帝に敗れた際、側近が夏侯栄を抱えて逃がそうとしたが、夏侯栄は「主君や肉親が難に遭っているというのに、どうして自分だけ逃げることなどできようか」言って逃げることを潔しとせず、剣をふるって戦い討ち死にしたという。
 定軍山の戦いに敗れた曹操軍は漢中を放棄して北へと引き揚げて行った。曹操は漢中近辺の住人をゴッソリと北へ拉し去ったので、先帝が入城した際には漢中はもぬけの殻だった。城外に広がる菜の花畑も、土を作った住民たちはあらかた連れ去られ、先帝に従って後から移住した人たちが後を継いだんだ。軍閥が人的資源を引き連れて移動するのは常識だが、翻弄される住民は不幸だ。
 隊長が家出中に長坂の戦いがあったということは、もしかしてそこで親御さんを亡くしたのだろうか。だとすれば、親不孝だというそしりは単に家出を責められたという以上に痛いものであるに違いない。だからって、いまさら泣いたところでしかたないじゃないか。過ぎたことはしかたないんだ。むしろ離れた場所にいたために難を免れ今でも無事に生きているほうが親御さんは喜んでくれるんじゃないのかよ。メソメソしやがって。

 行き過ぎる村々には食事時でもないのに炊煙が上がっている。臘日ろうじつを過ごすためのご馳走を用意しているのだろう。いい年の暮れだ。
 俺にはお袋と兄貴がいて、あによめは俺と血縁関係のあるチビっ子を三人も産んでくれた。ありがたい。さっさと家に帰って子守でもしよう。今頃きっと姪っ子が煮炊きに忙しい嫂にまつわりついているに違いない。



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