三十二、跋渉(ばっしょう)(3)

 隊長は例によって、花見へ出かける前にあらかじめ桃園村に了解をとりつけるために、馬に乗って出かけて行った。去年、桃園村でいろいろごちそうになったが、ひょっとして隊長が最初に挨拶に行くときにお金でも渡してあったのかな。あいつならそのくらいのことはやりそうだ。
 翌日、さっそく花見に出かける運びとなった。黄屯長がみんなに計画を説明すると、いっせいに「エ~!」という声があがったが、これは、半分は面白そうだという好意的な歓声であり、残りの半分は走るなんて面倒くせえとか隊長の速さに合わせるのは無理なんじゃねえかという否定的な声だった。同じ釜の飯を食っていても、物事の受け止め方はさまざまだ。
 隊長はやる気満々でニコニコしている。まあ、コイツがいくらバケモノだといっても、もう三十代半ばのオッサンだ。日頃から走り込みをしているわけでもない。俺達がついていけないわけはないだろう。それにしても面倒くせえ。もう機嫌も治ったようだから、なにもわざわざ命懸けで山道を走らなくったっていいじゃないか。
 黄屯長の説明が終わり、門の外に並ぶ。黄屯長が最後尾から声をかける。
「じゃあ隊長、お願いしまーす。」
「はーい。じゃ行くよー。しゅっぱーつ。」
馬鹿か。
 俺はいつも列の後ろの方なんだ。前の連中が走り始めてから、自分が進み始めるまで、しばらく間がある。前方から、兵隊の走り始める時のガチャガチャいう音が次第に近付いてくる。はい来た。走ります。ってオイ! 無茶すんな! 全速力じゃねえか。馬鹿か! まさかこんな勢いで五十里走りきる気じゃねえだろうな? ヤベエ、進み始めてから二十歩も走ってないのに、もう若干息切れしてきた。ぜったい山道で死ぬだろう。
 隊長! 菜の花が咲いてますよ! 見ないんですか! 小休止とる気ねえのか! 馬鹿野郎、殺す気か! 山が近付いて来た。頭が真っ白だ。ぜったい遭難するだろう。
 山道を走るのは困難を極めた。木の根っこにつまづいて転ぶ奴や、ぬかるんだ場所で滑り落ちる奴が続出する。列が渋滞をおこし、後方にいる俺達は前の連中を救助したりボケーっと待機をしいられたりしたかと思うと突如全力疾走させられる。山の遥か上のほうから
「オイ誰か着いて来いよ! 迷子になるぞ! お~い、こっちだぞ~。」
という声が聞こえる。どっち向いて走ってるのかとか、把握しながらやってるのかな? ひたすら好きなだけお山を走りまわって遊んでるだけなんじゃねえか?
 ああ、マズいな。前の奴との間が開いちまったぞ。迷子になりそうだ。遭難したくないので必死についていく。オエ。具合悪くなりそうだ。ああコケた。クッソー。痛て~。破傷風になったらどうしてくれるんだ! あ、これワラビじゃねえ? なんてやってる場合じゃなかった。ああ膝痛て~。ヒョコヒョコしながら走る。



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