三十三、密命(1)

 春の夕べは美しい。晩飯前のひと時、茜色に輝く秦嶺の稜線をうっとりと眺めていると、視界の片隅に真っ黒な馬を引いて歩く伯楽ばくろうの姿がよぎった。何気なく目で追う。伯楽ばくろうが隊長を探し出して何事かを言うと、隊長は愉快そうに笑いながら、無神経な大声で馬に話しかけた。
「スカッとした顔して戻って来やがって。よっ、憎いねこの色男!」
隊長の馬は去勢をしていないから、種付けに行っていたのだろう。馬は大声に驚くでもなく隊長に鼻面を押し当てて甘えたしぐさをする。
「どうだったあ? 女の子は。よかった?」
優しく声をかけながら馬を撫で撫でする隊長。伯楽ばくろうとしばらく楽しげに立ち話をし、伯楽ばくろうが辞去するのと入れ違いに、遠巻きに見守っていた張屯長がニヤニヤしながら隊長に近付いて行った。
「クロもとうとう男になりましたかあ。」
黒児クロというのは隊長の馬の呼び名だ。
「おめでとう。お祝いしよう。」
二人して馬を囲んでひゃっひゃっひゃっと笑う。
「いやあ、羨ましい。」
「ギャハハハ、なに言ってんの。」
「こんど馬を並べて江湖こうこに遊びましょうよお。」
「嫌だよ。」
「つれない人だなあ。一人で駟馬しばに鞭打つ気ですか?」
「それすげえ絵面えづらだな。」
駟馬というのは四頭立ての馬車を引く馬たちのことだ。
「そこのところどうなってんですかあ? 毎日のように暗いうちから兵営を脱け出して何やってんですか?」
「朝市だよ、朝市。豆腐屋さんに行ってほかほかの甘~い豆乳を飲む。」
「えっ、隊長、豆乳は甘い派ですか?」
「断然甘いのがいいね。ほっかほかの甘~いのを飲むと、今日も生きててよかったなあと思わねえ?」
「だめですよお。豆乳は豆腐の材料ですよ? 甘くするなんておかしいでしょ。」
「お前いま世界中の豆乳甘い派の人間を敵に回したぞ。」
「いいですよ。豆乳が甘いなんておかしいす。甘いのがいいなんて言ってるのは母乳の味が忘れられないお子ちゃまですよ。」
「面と向かって言ってくれるじゃねえか。」
「あ、ほら、クロもうんうんって頷いて私に賛同してくれてるじゃないですか。」
「これは、話がなげえ、退屈だ、って言ってるんだぜ。よしよし。あっちに美味しそうな葉っぱがあるから食べに行こ。」
「隊長も葉っぱ食べるんですか?」
「う~ん、あの葉っぱはあんま人間様の口には合わなさそうだなあ。」
「ってことは、人間の口に合いそうな野草を見つけたら馬と一緒にムシャムシャ食ってるんですか?」
「よっぽど旨そうなのがあればね。」
「旨い野草なんてあるんですか?」
「こんど一緒に探しに行く? いい季節だ。」
「遠慮しときます。」



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