五、魔境(11)

 ものすごく慎重に歩を運ぶ。これは俺だけが気を付けていたってどうしようもないことだ。前の連中のでき次第だ。みんながすごく真剣に歩いているのが分かる。雑談の声は一切聞こえない。足音と、装具のカチャカチャいう音だけだ。みんな隊長の嫌味を聞きたくないんだ。俺達は誇り高いのだ。
「はい、もう一回歌って、国殤こくしょう。」
    操呉戈兮被犀甲…… (呉戈ごかり 犀甲さいこうて……)
発狂しそうだ。平常心、平常心。歩幅さえ間違わなければ、歌に合わせて進めばいいだけだぞ。みんながんばれ。って、みんなが同時に念じていたと思う。古詩の重厚な韻律の中に異常な緊張感が漲る。歌ううちに、息を吸ったり吐いたりする一つ一つまでぴったりとそろった感じだ。頭の中で考えていることも全員同じだ。
 平常心、なんていう言葉も忘れてしまった。頭の中は真っ白だ。全員一つになった足音だけを聞く。どのくらいの時間そうしていたのかも分からない。不意に
「ハイお疲れ~、小休止。」
という声が聞こえた。呪いが解けたようにぺたりと座りこみ、みんな顔と顔を見合わせる。隊長はにっこりと笑った。
「やればできるじゃん。」

 山を下りて、平野に出る。ああ、見慣れた漢中かんちゅうの景色だ。元気いっぱい凱歌をうたいながら南鄭なんていに戻る。まだ夕方だ。隊長はにっこり笑った。
「みんなよく歩いたな。」
そういえば、道中、具合悪くなっちゃう奴とかいなかったのが不思議だ。四日もせっせと歩いていれば、ふつう絶対何人かは進めなくなるものなのに。なんなんだろう。やっぱり妖術なのだろうか。
 隊長が妖術で用意しておいた鍋を火にかけ夕食の支度をする。いや、たぶん妖術じゃないんだろうけど。「四日後の晩飯までには絶対戻るからなんか食うもん置いといて」って手配してから出かけたんだろう。ピッタリ四日後の夕刻に落伍者なしで到着したのは奇跡だと思う。
 鍋の中身は鶏肉や野菜がごろごろと入った煮込みだ。四日ぶりに温かいものを食う。旨い。おいしいものを食べて身も心もほっこりしたところで、隊長がみんなに向かって問題を出した。
「今回は南西方向に三百里の往復だったけどな、こっから真北へ六百里ひた進むと、どこに着くと思う?」
「え……っと、四日間くらい歩いたって、秦嶺しんれいの真っただ中なんじゃないですか?」
「あははは、違う。」
隊長はひとしきり笑ったあと、ニヤリとしながら言った。
「秦嶺を抜けて、ズバリ陳倉ちんそうだ。」
陳倉……。我が軍が箕谷道きこくどうを通ってを討つ場合、必ず陥とさなければならない拠点だ。ふうん、そんなところまで、たった四日で着くんですね……。



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