五、魔境(4)

 我が軍伝統の生民せいみん体操を行う。これは文字通り、詩経しきょうの「生民せいみん」を歌いながら様々に身体を動かすというもので、最初から最後まで端折はしょらずに行うととてつもなく長く、終わった頃には全身汗びっしょりになる。ああ、なんか、気持ちいいな。イライラと歩かされて身も心もコリコリだったから、無心に身体を動かすのが気持ちいい。
 体操を終え、休憩となった。俺は隊長を見ないように気を付けながら水を飲み、ションベンを済ませ、木陰でくつろいだ。どうして隊長を見ないようにするかというと、視界の片隅に奴がいるだけで不愉快だからだ。あ~、面倒くせえなあ。休憩終わったらまた棒でツンツンやられんのかなあ。俺がふてくされた表情で足を投げ出している傍らで、隊長に向かって
「また歩く練習再開するんですか?」
と聞く奴がいた。
「どうすっかなあ。てめえら歩くどころじゃねえな。筋肉作るとこからやろう。」
「ええ~っ! どんどん基礎的なほうに戻ってくじゃないですか!」
「そ。基礎がなってない。グダグダの土台の上に何を積んでもダメだね。一からぜ~んぶやり直し。懐かしいよなあ、基礎教育。」
「ええっ、それ徴兵されて一番最初にやったやつじゃないですか……。」
「ああ、入営して以来のこの四年間が全否定された……。」
こう言って泣いている奴もいた。うちの部曲で一番の長老は十五年の軍隊経験があるのだが、そのくらいの年になるともう敢えて文句を言う気もないらしい。恬淡てんたんとしたものだった。隊長だけが一人楽しげに、こう言った。
「基礎が完成したら仕上げに楽しい実働演習やろう。実戦でこんな厳しい状況見たことも聞いたこともないってくらいのワクワクするやつ。ああ楽しみだ~。」
エエ~、俺そんなの全然楽しみじゃないス。

 なんの余興もなしにひたすら単調な訓練を繰り返すなんて、基礎教育を終えて以来初めてだ。前のちょう隊長の頃には、朝から晩まで基礎的な内容を黙々とさらうなんていうことはしなかった。頭を真っ白にして黙々と身体を動かすのは、意外に気持ちが良い。こういう感覚は久しぶりだ。
 日中にひたすら単調な運動をしたあとの晩飯は旨い。身体を動かしたぶん腹が減っていることに加えて、単調な一日のなかで唯一色彩を持っているのが食事だからだ。ちょうど食欲の秋で、モリモリ食って身体も動かしているから、体つきが一回り大きくなった気がする。食事をモリモリ食っているくせに、みんな顔を突き合わせては腹減ったと言い合っている。育ち盛りのガキンチョのようだ。



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