五、魔境(7)

 夕方になり、西漢水せいかんすいが見えてきた。水面が黄金色に輝いてきれいだ。早朝から早足で歩き通しなのに、景色を楽しむゆとりがあるとはどういうことだろう。身体が歩き続けることに慣れている。本当に疲れを知らない。異常な隊長に調練されたせいで、俺達も異常な兵隊になったのだろうか。
 行軍に不安を感じ始めたのは夜になってからだ。暗すぎる。松明の明かりで闇夜の桟道を歩くのは怖い。目の前が明るいぶん、周りが余計に真っ暗に感じるんだ。照らされている範囲は明るく、よく見えるのだが、炎が揺らいでふと足元が陰る瞬間があると、足を踏み外しそうな恐怖を覚える。
 闇の深さに圧倒される。静まり返った深山幽谷、闇はどこまでも広がっている。いや、広がっているのか、閉ざされているのか分からない。なんにも見えないんだ。俺達のほそぼそとした一列の明かり以外の場所は、全てが闇だ。このたよりないほんの一辺の明かりだけが生きている世界で、それ以外の場所は全て無なのではなかろうか。心細いことこの上ない。遥か下方から西漢水の水音が聞こえる。単調な足音と疲労で、妙な精神状態に陥る。いつの間にかこの世ではない所に迷い込んでいたとしても、気付くまい……。隊長がふと口を開いた。
「なんか歌おうぜ。シ秦しんシ有。」
  シ秦与シ有 方渙渙兮……
 (シ秦しんシ有と まさ渙渙かんかんたり……)
歌い終わるや前方から声が上がる。
「なんスかこのこちょばゆい歌~。」
どっと笑いが起こる。その後も隊長は延々と俺達に艶っぽい歌を歌わせ続けた。俺達が異次元世界に入って行かないための予防策だろう。

 行軍二日目、すっきりと目が覚める。爽やかな朝だ。山の空気、水音、鳥の声……と思って何気なく起き上がると、場所の狭さにぎょっとする。そうだった、激狭ゲキせまの桟道の真っただ中で寝ていたんだっけ。忘れてた……。冷や汗をぬぐう。いつから起きているのか知らないが、隊長は愛おしげに馬の毛をいている。こいつはむやみに早起きだ。
 くねくねとした桟道、川、鳥の声。変わり映えのしない単調な行軍が続く。天気は薄曇り。絶好の野外活動日和だが、流れる雲とか、青い空、まぶしい太陽などが無いことで、全体の風景をのっぺりとしたものにさせている。あまりの単調さに発狂しそうだ。延々と続く狭い一本道、前を歩いてる連中と入り乱れてはしゃぎ回ることもできない。こんな変化のない行動は、ジジイにさせればいいじゃないか。世界はどこまでも広がっているというのに、こんな狭い一本線に閉じ込められて、朝から晩までおんなじ風景の中で黙々と早歩きを続けるだけなんて、若い俺達にはこの上もない苦痛だ。ぶうたれた顔をしていると、隊長が
「飴ちゃんやるよ。」
と言った。飴のことを飴ちゃんって呼ぶのかよ。と思っていると、ずっしりと重い袋を渡された。



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