五、魔境(9)

 行軍三日目、行動開始早々、折り返しの作業にとりかかる。狭い桟道なので、後方の連中が道の脇に詰めて止まっているところに、前方の連中が折り返して戻って来る。二日二晩の間、ずっと二列縦隊で進んできたので、自分の前に進んでいる連中と顔を合わせるのは久しぶりだ。最前列の文達ぶんたつ孫子粛そんししゅくが隊長のところまで戻って来る。隊長は懐かしげに
「おう、二日ぶり。」
と声をかけ、一人ずつ小突く。二人は嬉しそうに
「声はよく聞こえてましたよ。」
と笑う。こいつらは二日の間ずっと、目の前に延々と続く無人の桟道を先頭きって歩いてきた。夜は眼前に広がる闇に向かって勇を鼓して足を踏み入れてきたわけだ。なんて偉い奴らだろう。歩兵の行軍は、歩幅が規定されている。歩を運ぶ速度については、号令で指示が出る。歩調が乱れると、隊長は軍歌を歌わせる。こいつらは行軍中ずっと、身体に叩き込んだ歩幅と後方からの音だけに頼って進んできたわけだ。
 続々と懐かしい顔が折り返してくる。隊長は一人一人に声をかけながら小突く。前を進んでいた連中が全て折り返し、最後尾も折り返す段になって、隊長は懐かしくもない身近に行軍している隊員もニヤニヤしながら一人残らず小突いてから、復路の行軍を開始した。
 今日も変わらず薄曇りだが、気持ちが軽い。もう復路だ。さ、まっしぐらに南鄭なんていに帰ろう。ウキウキと歩く。丸二日も早朝から深夜まで歩き続けているにもかかわらず、この元気はなんだろう。じつに不思議だ。この二日間、疲れが蓄積するということがない。妖術にでもかかっているのだろうか。隊長が配ったあやしい飴に、何かおかしな薬物でも入っていたんじゃあるまいか。この日は軽やかに凱歌をうたいながら、単調な風景も夜の闇もものともせず、意気揚々と歩き続けた。
 深夜になって、その日の行軍を終了し、さあ寝ようかとう段になって、隊長が
「名残り惜しいなあ。お泊り遠足最後の晩だぞ。」
と言ったら、みんな笑った。なんとなく行軍には馴染んできたものの、いつまでも続けたいなんて誰も思ってねえよ。馬鹿かよ。
「みんな怪我も病気もなく、よくここまで来たな。ひゃっひゃっひゃっ、よくやるぜ。」
なぜだか大爆笑している。
「嬉しいぜ。あと一日、キッチリ歩こう。」
暗くて表情が見えないが、きっとニッコリ笑っているのだろう。

 行軍四日目、久々に青空を見る。歩き始めてほどなく西漢水からも別れ、魔境を抜けたかのように風景が命を取り戻す。これまでの二日二晩はなんだったのだろうか。風景も時間も全て止まっているような、悪夢のような行軍だった。もしや我々の精神力を鍛えるためにこの路程を組んだのだろうか。狭い桟道に何日も閉じ込められて発狂する隊員が出るようでは、作戦行動に支障がでるから。なにせ、我々の駐屯している漢中からは、険しい山道を延々と越えなければどこにも行けないんだ。



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