九、立ち聞き(1)

 朝食前のひととき、隊長が愛おしげに馬の毛をいていると、そばを通りかかった一人の隊員が立ち止まり、じっと隊長を見詰めた。気色キショい。なにか言いたいことでもあるのだろうか。
 こいつは王仲純おうちゅうじゅんという奴で、なんだか知らないが常にやる気満々の暑苦しい奴だ。隊長が着任早々、鉄鎧を着て三百里歩こうと言いだした時に、ほとんどの奴がゲッと思ってヒイていたが、こいつは目を輝かせて喜んでいた。その後も隊長がいろいろと無茶ぶりをする度に嬉しげにしており、「今度の隊長とは波長が合う」と喜んでいる希少生物だ。
「隊長、六百里を一昼夜で走破するっていう訓練、ほんとにやらないんですか?」
オエ。やっぱ暑苦しい。
「やるつもりはないよ。」
「えー、なんでですかあ? ぜひやりましょうよ。」
「ギャハハハ、物好きな奴。」
隊長はひとしきり大笑いしてから、仲純の肩をぽんぽんと叩いて話し始めた。
「六百里っていう距離は、それに向けて日頃から練習を重ねて何度も経験ある人が走ったとしても、十回走って十回とも完走ってわけにはいかない。そんな能力が実戦で役立つ時があるのかというと、一生に一度あるかないかだ。それに、取り立てて練習しなくても、ぶっつけ本番でもみんなのうち七割くらいは走れるだろう。これを故障者を出す危険を冒してまでわざわざ訓練に取り入れる必要はなしとするのは、合理的な判断だと思うけどな。」
「でもそれを通して培われるものは量り知れませんよ。不屈の精神力とか。」
「それはもうみんな充分持ってるよ。このあいだお馬ちゃんに勝ったじゃん。スゲエなあと思った。」
「伝説作りましょうよ。」
「ウッカリそんな実績作っちまってよお、人間が普通にそんなことできるって思われちまったらやっかいだと思わねえ?」
「できることはなんでもやりましょうよ、全力で。」
「俺がめざしてるのは究極の鉄人集団を作り上げることじゃないんだ。今から三十年後に俺らくらいの年頃の奴らが徴兵なんかされずに呑気に女房のケツでも揉んでるような世の中になってることが俺の夢だな。」
「おんなじことじゃないですか。無敵の軍団をつくって一挙に中原獲っちゃえばいいんでしょう?」
「腕力でぶっ飛ばしたって喧嘩には勝てねえぜ。体力練成にしても、兵器開発にしても、なんだって際限ねえんだよ。やることどんどん増やしていったら、お互いどんどんキツくなるばっかじゃねえか。人間様は六百里なんて走れねえ。それでいいじゃねえかよ。必要とあらばやるけどな、必要もねえのにすき好んで『こんなことまでできます』って吹聴するのは、人類の不幸だぜ。」
「なんて消極的な思考だ。そんなことで魏を倒せるんですか?」
「わざわざ倒さなくても勝手に滅ぶんじゃねえ? ダメだろあの国。魏の公文書なんか、公文書のくせに超難解なんだぜ。あんなことやってちゃダメだよ。ありゃあ亡国の文化だ。」
「軍人のくせに、文化論ですか? まさか無為にして化すとか言いだす気じゃないでしょうね。隊長らしくないですよ。失望しました。」
「おう、ありがとう。嬉しいぜ。」
こう言うと隊長は嬉しげにひゃっひゃっひゃっと笑いだした。仲純はいまいましげに舌打ちをして帰って行った。
 俺はてっきり、隊長がめざしているのは究極の鉄人集団を作り上げることかと思い込んでいたが、そうじゃないらしい。へえ。意外。



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