三国時代の北方と南方はローマとエジプトくらい違う?

『三国志』は三国を統一した晋の時代に編纂されました。
晋は長安や洛陽がある「中原」出身の漢族によって建てられた王朝です。
このため、『三国志』を通して見ると、漢族が治めている地域は全て中原と同じような社会だったのではないかなと思いがちではないでしょうか?

でも、現場は案外全然違ったのかもしれません……。

先程ちょっと思いついたことをツイートしましたので、メモ代わりにブログに貼らせていただきます。

以上、ただの思いつきですが、こういう目で疑いながら『三国志』を読んでみるのも面白いかなというご提案でした!


“三国時代の北方と南方はローマとエジプトくらい違う?” に2件のコメントがあります

  1. ‪セルフまとめツイートw‬

    ‪TL遡る行為が省けてこちらもありがたい♪その上で感想。‬

    ‪統治者、為政者の永遠の課題でしょうね。‬

    ‪規模は小さくなりますがw私が新卒の頃は会津の上司が山口出身の同期を本気で何のためらいもなく冷遇してたのを思い出しました。…例題としてはすんげぇ規模が小さくなったけれどね(ノ∀`)アチャー

    同様に‬中原コンプレックスの源流には過去の政的な排斥の積み重ねが南人の心を閉ざしたのではないのかなぁと思ってました、わたくし。

    • ブログ記事にしようかな、と一瞬思ったのですが、書くのが面倒だわいと思ってとりあえずツイートを貼り付けてみました。←ズボラ!
       
      国が大きくなればなるほど意思疎通が難しくなっていきそうですよね。
      北方と南方の統治体制の違いについては、私はメーカーの東京本社と地方工場の違いみたいなイメージで考えています。
      東京のオフィスは土日祝休みで、夏休みは一斉ではなく各自で有給をとり、朝は9:00出社。
      地方の工場は土日休みでも祝日は出勤で、夏休みはお盆の頃にみんな一斉に十日間くらい休みをとり、朝は8:15出社。
      工場ではラインを動かしたり止めたりする都合があるので工場ルールになるわけですが、それはオフィスしか知らない人にはちょっと想像しづらいかもしれません。

      中原コンプレックスと言えば、呉の人たちは北方の人を「傖人(そうじん)」と呼ぶことがあったようですね。北の田舎野郎、みたいな意味かと思います。
      呉の人たちが魏や晋にいじめられていたからそんな言葉ができたのだろうと思います。

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